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20世紀の酒文化

中世人と酒

貧乏徳利にみる江戸市中の酒

菅江真澄の記録にみる「酒」

近代日本における禁酒運動と柳田飲酒論

宮水の沿革(1)

宮水の沿革(2)

江戸の地下式麹室

地下三尺に眠る江戸の酒瓶

明治・大正・昭和の清酒酒造業の技術導入 略年表

明治中期以降における酒造技術の平準化と 産地間競争の激化

北関東地方における清酒製造業の形成過程

合成清酒の物語

お雇い外国人の
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堺の酒小史

北関東地方における
 清酒製造業の形成過程


江戸時代における
 知多半島の醸造業の
 展開とその背景

酒論稿集
酒の文化論
合成酒の歴史
はじめに
 筆者は二年ほど前に日本酒造史学会で「合成清酒の歴史」と題して口頭発表し、その内容が最近同学会の機関誌「酒史研究」第一八 号に掲載された。
実は口頭発表のときから本誌編集部から同様の表題で原稿を依頼されたのではあるが、前後のいきさつから今日に至ったものである。 本稿は酒史研究第一八号の「合成清酒の歴史」の内容をより一般化して読者諸賢のご参考に供したいと念願するものである。いわば「合 成清酒の歴史」の普及版であるので、歴史上のくわしいことは酒史研究第一八号をご参照いただきたい。

 人類と酒類との関わりは有史以前にまで溯ることができ、高度に発達した文化を有する民族はほとんどすべてそれぞれに固有の酒類 を作り出している。
 「瑞穂の国」といわれるわが国の固有の酒類はコメを原料とする清酒であるといっても異論はあるまいが、コメは同時に国民の大切 な主食でもあったのである。
 酒類は天然の農産物を原料として微生物によって醸し出された「天の美禄」であるとともに分析化学的には「各種化学成分の絶妙な 混合物」と見ることもできるのである。
 この観点に立って、各種化学成分を混合することによってコメを用いないで清酒と同等な酒類を造り出すことを目標に生み出された 酒類が「合成清酒」である。
 合成清酒は国民酒の原料と国民の主食とがたまたま同じコメであったところから必然的に発想された酒類で、このような発想の酒類 は世界でも例を見ない、わが国独特の誇るべき産品であるところから、合成清酒の誕生から現状などをまとめて紹介することは意義の あることと思う。
 なお、「合成清酒」は昭和一五年(一九四〇)四月一日実施の酒税法により定義された 名称で、それまでは種々の名前でよばれていたのであるが、本稿では便宜上最初から「合成清酒」で通すことにする。

合成清酒誕生の時代背景

一 米騒動の時代
 現代はともかくとして、昔はコメは文字どおりわが国民の主食であって、「メシ」あるいは「ご飯」の呼び名が残っているように、 大多数の庶民にとってはコメを食べることが食事そのもので、「おかず」はコメを食べるための副食であった。また、「雨ニモマケズ」 詩の一節にあるように、慎み深い宮沢賢治先生でも「一日に四合の玄米」を必要とされていたのである。
 一方、往時は今日と違って酒類のヴァリエーションは乏しく、今日でも「お酒」といえば清酒のことを指すほどに 清酒の比重が高かったのである。その清酒の原料がコメであることは周知のとおりである。
 明治維新以後、人口は増加の一途をたどっており、同時にコメも増産されてきた。というよりもコメの増産があっ たからこそ人口も増加できた面がある。いま明治六年(一八七四)を基準としてそれ以降の人口、玄米生産、清酒生 産指数の推移を図表1に示す(2)(3)(4)。 この図から明らかなとおり、人口は着実に増加している一方、年毎に変 動はあるもののコメも昭和四〇年(一九六五)代までは増産されており、その増産指数は人口の増加指数をかなり上 回っている。基準の明治六年にすでに絶対的なコメ不足であったのかもしれないが、この図だけからはコメは比較的潤 沢にゆきわたってきたように思われる。それにもかかわらず大正初期から大正一〇年(一九二一)ごろにかけては米価の変動がとくに 激しく、明治初期の一〇倍にまでなった(5)。とくに大正七年(一九一八)には米価が急騰し、八月七日の東京白米小売価格は一升あた り五〇銭を超えたそうである。当時の労働者の日給は九二銭とのことで、昔は家族も多かったことであろうから、これでは生活できな い状況が推測できる。このような米価急騰は絶対的なコメ不足というよりも一部の悪徳商人による投機的なコメの買い占めと売り惜し みが直接的な原因と見られている。果たせるかな、大正七年(一九一八)七月二三日富山県魚津町に勃発したいわゆる米騒動は全国に 波及し、ついに軍隊の出動によってようやく鎮圧されるという騒然たる社会情勢であった。 ついでにいえばこの騒動を契機に寺内内閣退陣、平民宰相原敬総理大臣の登場、政党内閣の誕生、選挙権の拡張、民権の前進拡大へと 展開して行った(5)。
このような社会情勢下にあって、コメを使用しないで清酒を製造しようという気運がとくに化学者の中から起こってきた。

二 混成酒の経験
 一方、明治二四、二五年(一八九一、一八九二)ごろからアルコールが輸入されるようになり、清酒にアルコールと調味料を加えた 増量清酒が出現するようになった(1)。これが混成酒である。この方法は清酒製造中の腐造事故および貯蔵中の腐敗事故を避けること ができるうえ、製造原価が著しく安価であったことからメーカーに莫大な利益をもたらした。明治三一、三二年(一八九八、一八九九) ごろは混成酒の全盛時代で、アルコールの輸入額は年額三〇〇万円にものぼり、本来の清酒は影をひそめるほどであった。この状況を 憂えた当局は酒精及酒精含有飲料税法(明治三四年(一九〇一)一〇月一日実施)とアルコール輸入関税の引き上げで対応し、混成酒 では採算が取れなくなって、ようやく衰退した。しかし、この方法の記憶は残っていて、コメ不足の状況下で再開の願望が起こってき たようである。

製造方法の歴史的ヴァリエーション
 右に述べた社会状況を背景として、コメを使用しない合成清酒の社会的要請がしだいに整ってき、多くの化学者が種々の製造方法を 提唱した。それらを要約して図表2に示す(1)。各提唱者はいずれも著名な化学者達で、いわば当時の名士であって、その志すところ は純粋に国民の食生活を憂えてのことと思われる。これらの方法の中で理化学研究所が最も長期にかつ組織的に熱心に研究されたゆえ もあって、しだいに「理研酒方式」に集約されてゆき、現存する合成清酒製品はほとんどすべてこの方式の流れを汲んでいる。

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