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お雇い外国人の
 醸した不思議な酒


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北関東地方における
 清酒製造業の形成過程


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酒論稿集
酒の文化論
お雇い外国人の醸した不思議な酒
 オスカー・コルシェルトは、明治期に日本でさまざまな研究をおこなったお雇い外国人。 彼の日本での第一のテーマは、「日本酒の改良」だったという。四季醸造と製造日数の短縮 を目指し、彼が達した結論は、原料の大麦をラガースタイルで発酵させたユニークなもので ある。日本酒造史学会公開講演から、この大麦製日本酒醸造についての岩手大学教授の藤原 隆男氏の講演を紹介する。

オスカー・コルシェルト(Oskar Korchelt)という人は、ベルテルスドルフというドイツ でも東の外れの町の出身です。一八五三年に生まれて、一九四〇年にライプツィヒで亡く なっています。
 お雇い外国人として日本に来ますが、東洋大学の鎌谷親善先生の調査研究によれば、来 日には手違いがあったようです。ドイツに求人依頼を出した東京医学校(のち東京大学医 学部)は、その後日本滞在中の外国人を雇うことにして求人をキャンセルします。しかし、 このキャンセルの報告が届かないうちに、日本のドイツ駐在公使がコルシェルトと契約を 済ませてしまったらしいのです。

コルシェルトの主な業績
 日本に来たコルシェルトは、精力的に仕事をしました。明治九(一八七六)年一二月一 五日に来日し、満八年間日本に滞在しました。この間に、平均すれば年に五本くらいずつの 業績を残しています。
 最近、ドレースデンの東南、ポーランド国境に近いツッタウという町の公文書館で、コ ルシェルトが大学ノートに手書きした、日本に来る時の航海記のようなものを含む資料が 発見されました。
 その航海記によりますと、明治九年の一二月四日に富士山の見えるところまで来ている ことがわかります。政府の公式な記録では一五日に日本に来たということになっています が、なんらかの理由で上陸できなかったのか、あるいは上陸しても正式な来日ということに はならなかったのか。そのあたりは、ちょっとわかりません。
 在日中のコルシェルトの仕事は、だいたい二つに分けて考えたほうがよいと思います。 職場の関係でいいますと、東京医学校及び東京大学医学部には、明治九年一二月から一 二(一八七九)年一二月三一日まで勤務し、その後、農商務省の地質調査所に移り、一七 (一八八四)年一〇月三一日までそこに勤めて、その後ドイツに帰りました。
 コルシェルトは八年間で大きな仕事を三つしていますが、ひとつは「酒」で、最初の東 大医学部の二年間、集中的に「日本酒」の研究をしました。
 地質調査所では、「塩業」と「陶業」の研究をしていて、陶業の研究は、在日中には活 字にならなかったようですが、その後出版されました。

ビール式醸造法による日本酒改良案
 今日お話しますのは酒造に関することです。東京大学医学部時代の二年間で、コルシェル トは日本酒の酒造技術そのものの研究、開拓使麦酒醸造所の技術指導、大麦製日本酒の醸 造に関する研究の三つをおこなっています。
 コルシェルトには、日本酒を改良したいという気持ちがあったようで、その改良の方法 としてビール式の醸造法を考えていました。  この方法は、「月桂冠」の指導をされていた醸造試験所の鹿又親先生の本のなかに書い てあります。
 鹿又先生によれば、ビール式醸造法は「純粋酵母による醸造方法」というかたちで、明 治三〇年代くらいまで引き継がれていました。この方式の端緒を作ったのがコルシェルトで はないか、ということです。
 この点について、裏付ける資料が二カ所から見つかりました。まず開拓使に宛てたコル シェルトの書簡が、北海道大学付属図書館に、開拓使から寄託された資料として残っていま す。もともとは開拓使文書です。もうひとつは北海道立公文書館に「開拓使公文録」が大 量に残っていまして、そのなかの「麦酒書類」に一部入っています。そのほかにも入ってい るかもしれませんが、今日はこの二つの資料を中心に話をします。
 これらの資料によれば、大麦製日本酒を造ることを開拓使に提言してから、最初のお酒 ができるまでの経過は次のようなものです。
 まず、明治一一(一八七八)年八月、コルシェルトは「ON SAKE(酒について)」とい う論文を書いて、そのなかで大麦でも酒が造れそうだということを書いています。実際に 造りたいと言ったのは、明治一一年一〇月二一日で、それでは造ってみるかとなったのが 三日後の二四日のことです。
 そして、明治一二年二月に第一号の大麦製日本酒ができあがりました。その頃、コルシ ェルトは機会があるごとに、サリチル酸で腐敗を防ぐことができるということも言ってい ます。
 「日本酒醸造の研究」については、酒造史学会誌の『酒史研究』第二号にドイツ語から の翻訳が掲載されています。コルシェルトはこの論文を最初ドイツ語で書いて、次に英語 で書いて、またドイツ語で書いた。だいたい同じ内容のものを約一年間に三回書いていま す。最初のものがいつ書かれたかははっきりしないのですが、明治一一年八月以前にドイ ツ語でドイツの雑誌に書いて、八月に「JAPAN WEEKLY MAIL」という横浜で出し ている新聞に「ON SAKE」を英語で書いている。さらに明治一一年一二月、雑誌にドイツ語で書いています。
 日本政府への提言は、英文のものに基づいたものです。

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