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20世紀の酒文化

中世人と酒

貧乏徳利にみる江戸市中の酒

菅江真澄の記録にみる「酒」

近代日本における禁酒運動と柳田飲酒論

宮水の沿革(1)

宮水の沿革(2)

江戸の地下式麹室

地下三尺に眠る江戸の酒瓶

明治・大正・昭和の清酒酒造業の技術導入 略年表

明治中期以降における酒造技術の平準化と 産地間競争の激化

北関東地方における清酒製造業の形成過程

合成清酒の物語

お雇い外国人の
 醸した不思議な酒


堺の酒小史

北関東地方における
 清酒製造業の形成過程


江戸時代における
 知多半島の醸造業の
 展開とその背景

酒論稿集
酒の文化論
堺の酒小史
「小灘」といわれた堺の酒
 堺といえば、多くの人はまず自治都市・自由都市として栄えた中世堺、NHK大河ドラマ「秀吉」に登場する千利休と茶の湯文化の 堺、それから近現代の自転車工業、女性たちの間では「君死にたまうこと忽れ」と詠んだ熱烈な情熱の歌人・与謝野晶子を生んだ堺を 想い浮かべるであろう。しかし堺の酒造業をあげる人は誰もいない。
 酒といえば関西では灘、西宮、伊丹、池田それに伏見をもって代表とする。しかし堺は、実は江戸時代から明治・大正に到るまで、こ れら酒造地と並ぶ一大酒造業の中心であった輝かしい歴史をもつ。
 江戸時代の古い記録は乏しく、断片的にしか分らないが、元禄八年(一六九五)の『手鑑』によると、当時酒屋数一〇九人、酒造高 六四三〇石七斗五升とあり、宝永六年(一七〇九)運上金が免ぜられたことで減醸が指示され、酒造用米は一九五九石三斗八合、酒造 株八一株、酒屋数七四人となった。
 これだけでは堺の酒造業の地位はよく分らないので、一九世紀初めの摂泉十二郷における酒造株高との比較によって、堺の酒造業の 位置をみておくと、別表のとおりである。すなわち酒造株高における灘の地位が突出していることは当然であるが、それに続くのが、 伊丹、西宮、そのあとに堺と今津がランクされていることが分る。一方、酒屋軒数についていえば、堺は西宮を抜き、伊丹と同数で肩 を並べている。ということは、当時堺の酒造業は、他の酒造地と比べ、比較的小規模な酒造家が多く集まっていたということを意味す るであろう。
 こうして明治維新を迎えるが、明治四年(一八七一)それまでの酒造の株仲間制度から、誰でも酒類免許税、酒造営業税を納めれ ば酒の醸造ができる免許鑑札制度になった。その結果、酒造家軒数は明治三年には八二軒であったのが、その後徐々に増加し、明治一 〇年には八八軒、明治一二年には九五軒に達した。免許鑑札制度以前の免許株高は、明治三年には四万四三〇六石四斗になっているが、 実際の造石高はその約三分の一の一万四七六八石八斗であった。それが四年後の明治七年の統計によると、清酒造石高は急増して三万 七八六一石七斗五升となっている。この数字でみる限り、この四年間になんと二・四倍の生産増加があったことになる。
 このめざましい勢いの堺酒造業の発展、それはなにも酒造業だけに限られたものでなかった。この頃の堺は、明治三年鹿児島藩が戎 島にわが国近代紡績工場第一号とも称すべき戎島紡績所を開設(のち明治五年に官有となる)、また同年日本最初の煉瓦をつくった工 部省鉄道寮堺煉瓦製造所を設立(のち明治六年原口仲太郎に拂い下げられる)し、いち早く工業化へのスタートを切っていた。また鉄 道建設計画も早く、明治五年六月品川・横浜間に鉄道が開通するや、この年堺の有力者は大阪、堺間の鉄道敷設を出願し不許可になった が、それにもこりず、明治七年にも再び請願している。また明治九年には堺博覧会を南宗寺境内で開催している。この博覧会は規模は小 さかったけれども、大久保利通の勧業政策のために企画された明治一〇年第一回内国勧業博覧会に先立って行われたもので、いかに堺 市民が進取の気象に富んでいたかを伺わせる。堺にはいつの頃からか、市民の間で「ものの始まり何でも堺」と自負してきた伝統と気風 がある。明治初めの日本の近代化・工業化のスタートにもこの伝統的気概が貫かれている。

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