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貧乏徳利にみる江戸市中の酒

菅江真澄の記録にみる「酒」

近代日本における禁酒運動と柳田飲酒論

宮水の沿革(1)

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江戸の地下式麹室

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明治・大正・昭和の清酒酒造業の技術導入 略年表

明治中期以降における酒造技術の平準化と 産地間競争の激化

北関東地方における清酒製造業の形成過程

合成清酒の物語

お雇い外国人の
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堺の酒小史

北関東地方における
 清酒製造業の形成過程


江戸時代における
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酒論稿集
酒の文化論
北関東地方における清酒製造業の形成過程
1近代酒造業=余剰小作米加工の真偽
 清酒製造業は、近代期において製糸業や織物業と並ぶ巨額の生産額を有しており、かつ国税の主要財源であった。一八七四(明治七) 年と一九〇〇(明治三三)年の生産額を比較すると、製糸業が順に七五二万円と一億六五五〇万円、織物業が一八三九万円と一億七七 六四万円であるのに対し、清酒製造業は一九八一万円と一億五一四六万円である(1)。大産業であるがゆえに、これに関する研究蓄積 はすでに多い。
 だが、既存研究の関心は、市場が海外との競争から実質的に隔絶された在来産業の典型として、業界リーダーの灘・伏見を対象とし た産地経営の実態を分析することや、東北地方を典型とする地主の副業型酒造経営、日清戦後の酒税増税に対する灘・伏見と地方産地 の反応などに集中している。なぜなら、これらの前提条件として、近代の清酒製造業が灘・伏見の専業型大規模経営と地方の地主に よる副業型小規模経営に大きく二分できると考えられてきたからである。そして後者は、主に江戸時代から続く地主副業型の酒造家と 小作人の関係や、清酒の売買に伴う金銭の貸借を通じて、近代期における封建制の存続要因を明らかにする事例と位置づけられた(2)。
 このような学問的潮流は、マスメディア等を通じて広く一般社会の認識に影響を与えている。代表例は、一九九五年に映画化された 宮尾登美子の『藏』であろう。この作品で宮尾は、新潟県の地主が余剰小作米を有効利用するために清酒製造業を開業する経緯と、その後に幾度となく訪れる経営上の困難を乗り越えていく様子を活き活きと描写している。現在営業している酒造家の中には農地解放以 前に数十町歩の土地を所有していた例が多いため、読者ないし映画の視聴者はこの作品に現実感を抱きつつ楽しんだのではないだろう か。
 筆者(青木)も『藏』を近世・近代の東北・北陸地方に多くみられた地主副業型酒造経営の典型とみて大いに楽しんだ。しかし、 現在営業する全国の中小酒造家がすべてこの経営方法から発展したのではない。これまであまり研究されなかった北関東地方の酒造家には、地主の副業経営として清酒製造業を営んでいた地元出身者が少なく、一方で専業型酒造経営の近江商人や新潟県出身者が多い (図表1)。もちろん、この事実は北関東地方において地主副業型酒造経営が歴史上、常に少数であったことを示すのではない。馬 場(一九七七)や柚木(一九八九)、渡辺(一九九四)によると、近世期においては現埼玉県にも地主副業型酒造経営が繁栄してい た。ところが、これらは一八〇六(文化三)年の勝手造り令によって酒株の無所有者に酒造りが認められ、その上一八七二(明治四) 年に本格的な営業の自由化が認められると、専業の酒造家に淘汰され、第二次大戦後には少数派に転じた。この意味で、現代の北関東 清酒製造業は近代に形成されたものであり、近世の地主副業型経営と断絶している。
 そこで本稿では、清酒製造業にとっての近代を地主副業型経営から専業型経営への移行期として捉え、その経緯を明らかにしたい。 具体的には、清酒製造業を専業とする近江商人と新潟県出身者が繁栄して地主副業型酒造家を淘汰し、そのうち後者の新潟県出身者が 土地を集積して地主化する様子を描いていく。このように北関東地方で専業型酒造家が繁栄した理由は、江戸・東京に隣接しているた めに競争が激しく、副業型経営よりも高い専門知識と積極的な経営を必要としたからである。

2 近江商人の店舗展開
 近江商人は伊勢商人と並ぶ近世の代表的な行商人である。湖東、八幡、高島、日野などおよそ現在の郡に相当する範囲ごとに得意と する商品が異なっており、その中で清酒は日野商人の主力商品であった(小倉、一九九〇)。
 日野商人は、「商人」と言っても卸・小売業に特化していたのではなく、北関東地方の街道沿いを中心に店舗を設置し、清酒の製 造・販売を行った。ただし、店舗の運営は昭和四〇年頃まで、支配人という小僧からのたたき上げに一切が任されており、主家は日野 に住み続けて年に一、二回店舗を巡回した主家が店舗付近に移住しなかった最大の理由は、村落内の信用ある人材を安定して確保す るためであろう。現在も秩父市で繁栄している矢尾本店の例から明らかなように、近代において有力な日野商人は居宅の周辺五〜一〇 qから労働力の大部分を調達していた(図表2)。そして、彼ら奉公人は一般に代々主家に仕え、店舗の内外で激しい出世競争を強い られた。
 なお、労働力の募集圏は地縁・血縁関係によっておおよそ決まっていた。つまり、日野の中心村落では鈴木家、矢野家、矢尾家、横田家など分家別家関係にあるグループが「日野屋」、その西方にある北比都佐村では藤崎家、田中家、北西家など の地縁グループが「十一屋」という屋号をそれぞれ使用して組織化し、それぞれ異なる労働力の募集圏を有してい た。なお、「近江屋」と「桝屋」ないし「舛屋」は日野屋の、「江州屋」と「土屋」は十一屋の傍流が主に使用し た屋号である。これらの他、辻家を本家とする堺屋、島崎一統(3)の栄屋、竹村一統の天満屋などが繁栄した。
 これらの地縁・血縁関係は店舗展開にも反映されており、日野屋が埼玉県東部から栃木県にかけて、十一屋が群馬県か ら埼玉県北西部にかけての街道沿いに立地している(図表3)。近江商人は中山道を通って碓井峠から関東地方に入っていたため、創 業年の古い本家筋の店舗ほど群馬県と埼玉県北西部に集中している。現在の地名で説明すると、まず十一屋グループでは野田六左衛門 が一七五三年に群馬県安中市で、高井作右衛門が一七二九年に藤岡市で、藤崎ハ兵衛が一七二八年に鬼石町で、田中藤左衛門が一六九 四年に埼玉県深谷市で、日野屋グループでは鈴木忠右衛門が一七四八年に群馬県堺町で、矢野久左衛門が一七四八年に桐生市で、矢尾 喜兵衛が一七五〇年に秩父市で創業した。その後、一八〇〇年代にかけて十一屋が埼玉県南部へ、日野屋が埼玉県南部と栃木県へ進出 している。先に紹介した堺屋と天満屋が栃木県に出店したのも一八〇〇年代であり、近江商人としては後発の部類に属する。
 出店方法は、酒蔵の増設・買収に加え、分家別家への暖簾分け、乗合のりあい商法(4)という複数の商家による共同出資・共同経営などが 主であった。これらのうち、酒蔵の増設・買収は日野屋と十一屋が共通して行ったが、暖簾分けと乗合商法は十一屋に少なく、日野屋 に多い。この点から、十一屋が本家の経営規模拡大によって安定経営を目指すのに対し、日野屋は経営体の分割によってリスク分散を 図ったといえよう。
 また、屋号はかつて消費者に対する信用を示すものであったため(中野、一九八一、七四・七五頁)、近江商人はその性質を意識し て集中出店型の店舗展開を試みたと推察される。同時に、集中出店によってグループの市 場占有率を高めることは、後発の参入者を阻止し、経営の安定性を維持する上でも有効であった。このようにして、近江商人は出店先 周辺の地主副業型経営を淘汰し、現代に至るまで比較的安定経営を続けてきたと考えられる。

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