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20世紀の酒文化

中世人と酒

貧乏徳利にみる江戸市中の酒

菅江真澄の記録にみる「酒」

近代日本における禁酒運動と柳田飲酒論

宮水の沿革(1)

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江戸の地下式麹室

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明治・大正・昭和の清酒酒造業の技術導入 略年表

明治中期以降における酒造技術の平準化と 産地間競争の激化

北関東地方における清酒製造業の形成過程

合成清酒の物語

お雇い外国人の
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堺の酒小史

北関東地方における
 清酒製造業の形成過程


江戸時代における
 知多半島の醸造業の
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酒論稿集
酒の文化論
明治中期以降における酒造技術の平準化と産地間競争の激化
1.はじめに
 業者間と産地間の競争・協力関係はたいへん微妙な問題である。同じ産地内の同業者は、共通の市場を巡るライバル同士でありながら、 他産地の商品流入に対しては同じ利害関係をもつ協力者になりうる。また、異なる産地間の業者であっても、商品開発や対政府関係に ついてはしばしば協力関係が結ばれる。ただし、一般の市場では銘柄とともに産地名が有力な商品情報になっており、したがって同じ 産地内の同業者は、基本的に同じ産地ブランドを支える運命共同体と考えるべきだろう。
 ところで、この産地ブランドが清酒製造業界にとって大きな意味を持つようになったのは、およそ大正時代以降である。それ以前の 東京市場では、灘の大酒造家こそ銘柄での販売が可能であったが、地方の清酒は複数の銘柄を混ぜて売られていた。また、地方市場に おいても、小売店では一般に二、三種類か多くても七種類くらいの銘柄しか販売していなかったので、産地間競争はあまり重要な問題 でなかった。むしろ、直接的なライバルは近隣の同業者であったため、酒造家は地縁や血縁関係に基づくグループを形成して、地元市 場の確保を目指した(青木、一九九七)。
 ところが、大正時代になると府県単位で税務署の技術指導が実施され、かつその成果を品評会によって評価されるようになったため、 産地内の同業者が品評会における産地別の成績とそれに伴う産地ブランドの育成に関心をもつようになった。その結果、酒造家の協力 関係は以前の地縁・血縁関係から産地へ徐々に移ったと考えられる。
 そこで本稿では、技術指導と品評会開催による産地意識の昂揚と、それらに伴う産地間競争の変化について明らかにする。

2.組合の組織化と形骸化
 清酒製造業は江戸時代まで酒株により業者数と製造量を規制されていたが、一八七一(明治四)年に営業が自由化されると、多数 の新規参入者をみた。ところが、一八八〇年に全国で二万七八七五場もあった醸造場が、一〇年後の一八九〇年に一万四七五二場へと 半減する(1)。これは業者数の急増に伴う過当競争および零細業者の整理を意図する制度変更の結果とされるが、実態はそれだけで説 明できない。なぜなら、一九〇〇年に醸造場数が二万二九三八場へと倍増し、それに伴って一場当たりの製造石数が縮小するからであ る(図表1)。一八九〇年の時点で過当競争に直面したと推定すると、それ以降に業者の数が増えて、経営規模が縮小する理由 を説明できない。
 より重要な問題は、酒造技術の革新と普及の程度にある。すでに一八八〇年前後からアトキンソンやコルシェルトによって酵母の発 酵作用や火入れとサリチル酸の併用による腐造防止など、西洋科学に基づく研究報告がいくつか提出されていたが、実践レベルで西洋 科学的な酒造技術が普及したのは一八九〇年前後からであった。そして、この酒造技術の革新と普及に大きな役割を果たしたのが、一 八八八年発刊の『醸造雑誌』である。
 この醸造雑誌は、栃木県の海老原幸二郎によって発行された酒造技術の紹介を主とする業界誌であり、執筆者として兵庫の小野藤介、 小西新右衛門や埼玉県の荒井伊兵衛と中山房五郎、広島の三浦仙三郎などの全国的に著名な酒造改良家が名前を連ねていた。彼らはい ずれも経営者であり、大市場に近接しているが故に灘との品質競争に直面し、自ら酒造技術の研究に努力した。醸造雑誌の創刊直後は、 新規参入者からの投書が多かったため、酒造改良家が誌上で新技術の成果を公開すると共に、基本的な酒造技術を指導していた(2)。 これにより、全国の清酒製造業は酒造技術の未発達を背景として、一石当たりの酒税が一八七八年の一円から一八八〇年に二円、一八 八二年に四円へと引き上げられたのを契機に一時数多くの廃業者を出したが、一八九〇年代以降の技術普及と後に紹介する一八九六年 の自家用料酒製造禁止に伴って濁酒製造からの参入をみるに至った。
 ここで重要な点は、酒造改良家が自らの技術を秘匿せず、むしろ積極的に公開したことである。この背景には、灘との品質競争を続 ける上で、酒造改良家が技術的な情報網と同じ産地内で営業する酒造家との協力関係を求めたという経緯がある。例えば、中山房五郎 は一八八九年の醸造雑誌第一九号で、一八九〇年設立の埼玉県酒造組合が酒税法を遵守するだけで、他府県産酒の移入量増加に対して 何の対応もしないことを批判し、産地間競争に耐えうるだけの醇良酒を造るため、「縣内に一の酒造改良協會を設立し實業上學理的應 用を欲する」と述べている。房五郎が県単位での協力関係を重視した理由は、伊丹や知多の酒造家が協同で農商務省の技師を招聘して 酒造改良を進めており、その結果として醇良酒の製造に成功していると見なしたからであった。

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