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20世紀の酒文化

中世人と酒

貧乏徳利にみる江戸市中の酒

菅江真澄の記録にみる「酒」

近代日本における禁酒運動と柳田飲酒論

宮水の沿革(1)

宮水の沿革(2)

江戸の地下式麹室

地下三尺に眠る江戸の酒瓶

明治・大正・昭和の清酒酒造業の技術導入 略年表

明治中期以降における酒造技術の平準化と 産地間競争の激化

北関東地方における清酒製造業の形成過程

合成清酒の物語

お雇い外国人の
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堺の酒小史

北関東地方における
 清酒製造業の形成過程


江戸時代における
 知多半島の醸造業の
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酒論稿集
酒の文化論
明地下三尺に眠る江戸の酒瓶

 考古学といえば先史の解明を主な目的として発達した学問であるが、広く歴史学の方法として次第に歴史時代へと間口を広げ、最近では近世、さらには近現代をも対象とするようになってきている。文書や民俗例によって既に研究の多い近世を対象とすることに当初は疑問の声もあったが、予想に反して、その成果はめざましく、特に日常生活文化に関する新たな知見を多く提供することとなった。ここでは、「酒」にまつわる一例として、江戸遺跡出土遺物の中で最も特徴的な「徳利」を題材に、考古学からみた江戸の酒消費について紹介する。

江戸遺跡から大量に出土する陶製瓶
 東京における近世遺跡の調査が盛んになり始めたのは二〇年ほど前のことで、いわゆるバブル景気などを契機として、都心の再開発が盛んになったことがその背景にある。東京といえば、いうまでもなく近世における日本の首都「江戸」である。都心でまとまった敷地を持つ公共施設は、当時の大名藩邸敷地が維新の際に明治政府によって各種施設に転用されているケースが多く、ここで発掘調査が行われると、必然的に武家屋敷の遺構が姿を現すことになるのである。
 これに伴い、そこからは武家屋敷で用いられた多量のやきもの片も出土する。これは、当時の不燃ごみ処理が、多くの場合、敷地内に埋めることで行われていたことによるが、その総量は半端なものではなく、時として数百トンに及ぶこともある。なかでも桁外れに出土量が多いのは、中形の陶製瓶、すなわち徳利である。その出土量は桁はずれで、江戸時代後期の遺物集中(いわゆるゴミ溜め)などでは、出土やきもの類の実に三〜四割を占めることも稀ではない。これは本数にすると、数十本から、場合によっては数百〜数万本分にも相当する量である。
 これほどまで多量に出土する徳利は、現代の常識に照らすと想像し難いものがある。江戸遺跡の調査が始まった当初は、何か特殊な事情によるものと推測し、例えば千代田区の日枝神社境内遺跡では、境内の茶屋で使用されたものと解釈された。しかし、調査が進むにつれて、多くの遺跡で似たような様相が認められるに至り、これが「江戸」の特徴のひとつとして理解されるようになったのである。

民具・文書等にみる徳利
 徳利というと、すこし年配の読者であれば、骨董屋の店先に並ぶ文字徳利、一昔前にはよく飲み屋の店先で愛嬌を振りまいていた信楽焼の狸が手にぶら下げていたものを想像されるのではないだろうか。最近では、観光地などでこうした化粧瓶に詰められた日本酒・焼酎をよく見かける。
 民具資料にみる徳利は、主に酒を買い求める際、酒屋から貸し出される容器として知られている。このため、その胴には釉薬で店の所有を表す屋号などが記され、反復して使われることから「通い徳利」とも呼ばれている。また、これらの徳利には、電話番号が記されている事例が多いことから、近代期に盛んに用いられ、ガラス瓶の発達に伴って衰退したことが指摘されている(神崎一九八二)。その生産地は、東日本では美濃(瀬戸)、西日本では丹波・立杭が有名であるが、益子焼や大谷焼など各地の民窯製品や、伊万里などの染付製品もある。
 江戸時代後期に喜多川守貞によって編まれた博物書『守貞漫稿』には、美濃・瀬戸産徳利と推測される絵を掲げた上で、酒の小売用容器であること、貸し売り、売り切りともにあること、大小あることなどが記されている。しかし、これを「貧乏徳利」と呼ぶものの、その名前の由来は不明としている。また、貸し出しに際しては、瓶に屋号を記すことも多く行われていたことがうかがわれ、これは黄表紙の挿絵や浮世絵にも散見することができる。

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