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20世紀の酒文化

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酒論稿集
酒の文化論
宮水の沿革
縮小した宮水地帯
 図表1で見られるように、宮水地帯は縮小していった。色々な資料では、第一次・第二次・第三次宮水地帯のような表現で記されているが、それは第一次・第二次については「撤収」との言葉を付けねば正確ではない。第三次の地帯に全ての人が認めた「宮水発祥之地」の碑が建っているのだし、雀部説の鱗蔵井戸も白鷹本社(西宮市鞍掛町)の東側の道路と位置推定されている事からも、宮水地帯が縮小していったと考えるのが当然である。
 この縮小していったと言うか、撤収していったと言うか、その経過を述べてみたい。
 『灘酒沿革誌』によれば、明治の初めでは井戸屋敷は二、三ヶ所を数えるだけであった。が、明治二〇年代に入ると井戸屋敷は二〇ヶ所、井戸は五〇をこえる数となった。明治二七、八年頃、水屋によって販売される水樽数は一二〇万樽(一樽二斗入りか、一斗二升入りかは議論のあるところだが)に達したと言われている。これ等の水屋販売分は西宮以外の地区の分であったろう。水代も明治初年では一樽四厘であったものが、明治三三年は六厘になっている。宮水の需要は着実に増加していった。
 前回で述べたように、荷車による宮水の搬出ではなく、土管埋設をもっての搬出の合理化が図られた。これは宮水の汲み出しの増大に拍車をかけていった。
 それに加えて、西宮港の浚渫工事が盛んに行われていることも宮水地帯の縮小を加速させた。明治二〇年に一一代辰馬吉左衛門は現在の前浜町辺りの港湾西側部分、長さ六五間(約一二〇m)、幅八間(約一五m)、深さ五尋(約九m)の規模を持つ「西宮港の浚渫願」を提出している。
 明治三〇年代には、西宮市史編集室の資料によると、毎年土木工事費の内、港湾関係が大半を占めている。特に明治三四年度では港湾内の土砂浚渫は約三〇〇〇坪(これがいかなる量を示すものなのかは解らないが)に達している。このときの浚渫工事は二ヵ所で行われている。写真1がその工事の概略図である。南の部分は長さ五〇間、幅二〇間、深さ一間。札場筋の部分は長さ六〇間、幅四〇間、深さ一間の規模であった。
 これらの工事は、宮水の汲み出し量の増大による、井戸自体の水圧低下と相まって、宮水井戸に潮が注水しすぎる結果をもたらした。
 浚渫工事に危惧を示した人として、辰馬悦叟(初代悦蔵:白鷹醸造元:富岡鉄斎との親交で有名)の話が伝えられている。「こんなに掘ったら、宮水がかろうなってあかんがなあ。掘るならその方法もあるのに、この石垣修理ではだめ」と周囲の人々に警告した。が、そのまま工事は、最初の設計通り続行された。

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