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菅江真澄の記録にみる「酒」

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菅江真澄の記録にみる「酒」
1 酒の泉を発見しただんびる長者」
 菅江真澄は紀行『狭布の細布(けふのさばのの)』の天明五〔一七八五〕年九月二日条に次の伝説を書き留めている。秋田県鹿角市八幡平でのことである。

 その昔(かみ)、田山の庄のうちに、平間田本と云ふ処に男女住んで、耕を業(わざ)に夫婦(めお)、常に出(い)でて打ち返し、鋤(すき)を枕に昼寝したりける。
 男の鼻より秋津虫(あきづむし)〔蜻蛉〕のさゝやかなるが出でて、岩の狭間(はざま)を巡り、苔の雫や舐(な)めたりけん、羽濡れて飛び返り、左(ひだん)の鼻の穴に入りぬ。
 妻も肘枕してけるが、驚き、男を起こしぬ。男、起き上がり、「おもしろの夢見し」と言ふ時、女、「しかC」と語るを聞きて、「さらば、その処は何処(いづこ)、いで行きて見てん」と、女の教ゆる方を指して尋ね至り、苔より伝ふ泉を結べば〔掬えば〕香り満ちたる酒なり。
 「あな、嬉(うれ)し。天(あめ)の助けに遇(あ)へるものかな」と、酒の泉のほとりに家を建てて、風の吹き付くるやうに日にあらず富人(とみうど)となり栄ふるを、畏(かしこ)くも〔恐れ多くも〕、帝、聞こし召して、「そが持たる子やある」と問はせ給ふに、容貌(かたち)、東人(あづまうど)に似ざる美しき女子産めるを、やがて内裏(うち)に召し給ひて、御后(おきさき)に立たせ給ふとなん。
 里人、蜻蛉(かげろふ)〔トンボに似た小さな虫〕を「だんびる」と云へば、その頃の人、「だんびる長者」と云ひたりけるとなん。(未来社刊、内田武志・宮本常一編『菅江真澄全集』第一巻、三〇四〜三〇五頁。適宜、本文の表記を読みやすく改め、注釈を施している。以下同じ)

 東北地方に伝わる伝説「だんぶり〔だんびる〕長者」は、全国各地に分布する昔話「夢の蜂」と同じ系統に連なるもので、昼寝のあいだに昆虫が鼻から出入りして、夢から覚めると財宝の在処を知らされていたとするものである。昔話に描かれた男ならずとも、酒の泉を手に入れて富豪になって…、どんなに嬉しいことだろうか。まさに飲ん兵衛・呑み助の庶民なら誰でもが歓迎しそうなモチーフであろう。
 東北地方に多くの財宝発見・致福長者譚がある中で、黄金ばかりでなく、それと同等あるいはそれ以上に、神への供え物として、また、病気平癒・健康長寿の薬効を持つものとして、「酒の泉」の価値が高く認められていたからに他ならないだろう。

2、秋田小町に酔い泣きする
 真澄は三河国〔現在の愛知県〕で宝暦四〔一七五四〕年に生まれた。本姓は白井、名は英二、のちに秀雄。文化七〔一八一〇〕年頃から、筆名「菅江真澄」の名を用いている。信濃を経て、出羽・陸奥・蝦夷地を巡り歩き、図絵を差し挟んだ数多くの紀行を残した。のち、秋田領の久保田城下〔現、秋田市〕を根拠地として、それまでの見聞を考証した随筆や、領内を巡村調査した地誌などを執筆して、故郷に戻ることなく文政十二〔一八二九〕年仙北郡角館に客死している。その四十六年間にわたる旅の中にあって、多くの庶民文化・民間伝承を観察し、克明な記録を今日に残したが、その記録は、実感実証に基づいた旅人の眼による庶民生活の貴重な資料として、優れた民俗誌として評価されるものであろう。
 紀行『小野のふるさと』の天明五〔一七八五〕年四月二十六日条、真澄は秋田県湯沢市柳田にあった。友人とともに「野遊び」と称して、〈野も山も、丹〔朱色の土〕塗りたる如き躑躅(つつじ)の中に筵(むしろ)を敷いて、乾飯食(かれいひたう)び、酒呑む〉と書いている。四方の山々の美しさに心奪われ、その山の姫神に心を寄せていると、

 ・・・縹(はなはだ)〔薄い藍色〕のやうなる布を、あつあつと刺して着たる、いと清らなる女、老人に誘(いざな)はれて行くは小野の人なり。「あな、愛(め)でたの〔申し分なく素晴らしい〕女」と、人、うち守り〔じっと見つめ〕たり。「小町姫の縁(ゆかり)残りて、往(い)にし方(へ)〔昔〕より今に至りて、小野の邑にはよき女出で来るとは聞けど、かゝる顔よき女は、世の中にあらじ」など酔(ゑ)ひ泣きしたり。
(『菅江真澄全集』第一巻、二八二頁)

と、ほろ酔いの中で美貌の女性を目撃したことを記した。秋田県雄勝郡雄勝町の「小野」は、かの美人の代名詞とされる小野小町の出身地ということになっているが、藍色の刺し子に装った小町の流れを汲む秋田美人の可憐さに、眼を奪われ凝視するあまり、なんと迂闊にも感動にうち震えて涙を流してしまった。
 「酔ひ泣き」は、『万葉集』巻三に収められる有名な大宰師大伴旅人卿の「酒を讃むる歌十三首」のうちの一首である「賢(さか)しみと物言ふよりは酒飲みて酔(ゑ)ひ泣きするし優(まさ)りたるらし」に見える。小生には及ばぬながら、酒を呑んで議論や喧嘩に及ぶのは無粋と言うもの。美しいものを見て、美味しい肴に舌鼓を打ち、じっくり酒に酔い嫉れてみたいものだ。野遊びに出て、山並みに姫神の姿を想い、眼前に小町再来の美人を眺め、酒の滴を涙に変えて流すのは、なかなか得難い、素敵な座の雰囲気だったのだろう。
 酒は、その場その座にある人々との、強い連帯の中で互いに酒を注ぎ、盃を廻して飲まれてきた。酒は独りではなく、人々が集まって神々と心を通わせながら飲んだものである。人と自然とが交わって、その敬虔さに心動かして、人はそうして自然・神の一部分として生きて暮らしてきた。酒は本来、神祭りにのみ用いられた。神に供え、共に飲む「神人共食〔飲〕」である。ここに見る「野遊び」もそう。
 自然と共生する生活を連綿と続けてきた日本文化は、また、神に仕える女性による口噛みの醸造から、酒盛りの座まで、酒を巡る文化そのものだったと言って過言ではあるまい。
 紀行『牡鹿〔男鹿〕の寒風』文化七〔一八一〇〕年八月二十五日条には、

 ・・・夕つ方、烹粢(ニシトギ)〔団子〕と云ふもの、或るは、濁れる豊御酒(とよみき)を醸(かみ)して、提(ひさげ)に注ぎ入れて、それに稲穂一房を浸して、これなん「穂酒」と云ひて神に備〔供〕ふるは、阿仁〔秋田県北秋田郡〕の山里にて、穂祭(カヒホカヒ)てふ〔と云ふ〕例(ためし)あるに等しう、往にし方ぶりも珍しかりき。
(『菅江真澄全集』第四巻、二五三頁)

と見え、収穫を感謝する祭に、餅〔団子〕、稲穂、酒を神に供え、共食〔飲〕していることを、真澄は〈往にし方ぶり〉として称揚している。
 今日、忘れかけられてしまった農耕儀礼を中心にした歳時習俗〔年中行事〕には欠かすことのできない餅や酒、山海の珍物は、何れも神・自然と人の共存関係によって保証されていたのだ。


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