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貧乏徳利にみる江戸市中の酒

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酒の文化論
貧乏徳利にみる江戸市中の酒
 江戸遺跡から多量に出土する貧乏徳利は、酒消費の小口化に伴って発達した小売容器である。今回は、この貧乏徳利の胴に刻まれた釘書きを取り上げ、江戸市中での小売りの様相を垣間見てみたい。

貧乏徳利に刻まれた文字
 釘書きとは、陶製容器の釉薬面に文字を表す際、たがね・釘などで傷をつけて記す技法、もしくはこれにより描かれた文字のことである。染付大皿・瓶などにも認められることがあるが、最も頻繁に記されたのが貧乏徳利であった。徳利が普及し始めた一七世紀末〜一八世紀前葉頃はそれほど多くないものの、その出土量が爆発的に増加する江戸後期に至っては、出土徳利の実に九割以上に認められた調査事例も多い。当初は、墨書の様に丁寧に刻まれていた文字も、量が増加するにつれて線刻となり、幕末頃には目を凝らさないと判別できないような点刻に粗雑化していく。
 刻まれた内容は、文字、記号、数字などであるが、なかでも、一〜三文字程度の漢字・記号といった、何かの略号・符丁といった体裁を示しているものが多い。また、徳利個々で異なるのではなく、いくつかのパターンが抽出できること、また、同じパターンが複数の遺跡から検出されることから、これらは、消費者側ではなく、売り手側を示すものと判断できる。売り手側を考えた場合、現代においてはまず酒の銘柄ということになるであろうが、貧乏徳利の釘書きにおいては、その可能性が指摘できる内容、例えば江戸時代の番付に見られるような「ミツウロコ(溜池遺跡=二本松藩丹羽家・峰山藩京極家屋敷、日枝神社社家他、図表1)」や「山に三星」などは稀な事例である。一方、小売店の屋号であることを窺わせる事例は多数認められる。例えば、前回二〇〇三年冬期特別号に部分引用した黄表紙の挿絵には「山に十」の釘書徳利が認められるが、棚の樽には「剣菱」など、釘書きと異なる記号が描かれている。「大黒屋」、「三田や」、「(山に○)伊勢竹」、「高サキヤ」、「四方(千代田区・飯田町遺跡=高松藩松平家上屋敷、文京区・真砂遺跡=唐津藩小笠原家屋敷他、図表1)」など、釘書き自体で素直に屋号と理解できるものも多い。
 では、なぜ屋号が記されるのであろうか。特殊な事例だが、港区・宇和島藩伊達家屋敷跡で検出された素焼の異形徳利に、その理由を垣間見ることができる。すなわち、「神田四軒町尾張屋嘉七 紛失無用の事」と書かれたその墨書は、屋号が瓶の返却先を意図していたことを確かに物語っている。以前指摘した通り(長佐古二〇〇三)、貧乏徳利が小売りの貸出し容器として発達した以上、多くの徳利に屋号を記す必要があることは、また必然でもあったのである。底に墨書した例もあるが、釉薬の掛かった胴は墨を弾いてしまう。浮世絵などを参照すると、紙を器面に貼ることもあったようだが、これは洗えば容易に剥がれてしまう。釉薬面に文字を恒久的に記すには、釉薬で描くなど生産地で対応しなければならないため、近世段階の事例は非常に稀で、これが主体となるのは、通信・交通の発達した近代の文字徳利を待たなくてはならない。すなわち、釘書きは、消費地内で屋号入れを簡便に行うための手法として発達したもので、その盛期には、江戸市中にこれを専業とする職人もいたようである。


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