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一九八〇年の日本食ブームで浮上
 日本食がアメリカに広まる上で大きな節目となった年が何度かあります。その一つは一九八〇年。戦国時代の日本を舞台にした連続テレビドラマ「ショ ーグン」が全米で大きな人気を呼び、放映があった翌日は日本食レストランが超満員、リカーショップの棚に並んだ日本酒も売り切れになったと か。大衆レベルでの日本ブーム、というよりも日本食ブームが起きたのです。
 その年の夏に、筆者は六つの客室(定員一二名)を備えたアメリカ船籍の大型貨物船に乗って、横浜からロサンゼルスに向かいました。乗船客の大半が アメリカ人だったので、入国の前に船内で貴重なアメリカ体験ができたと思っています。
 航海中のある日の午後、船長室で簡単なパーティが開かれ、一二人の乗船客にパーサーや機関長も混じって、厨房から運ばれた サンドイッチなどを囲み、ビールやワイン、ソーダを飲みながら歓談したのですが、アメリカ人乗船客の一人が、持参した小袋の 封を開き、そのまま紙皿の上にサラサラと注ぎ込みました。日本上陸中に買ったと思われる「柿の種」、あられでした。日本を出 発してまだ一〇日ほどしかたっていないのに、筆者は奇妙な懐かしさにとらわれて、あるいは「これからしばらくは味わえない」 という心理が働いたせいか、そのぴりっと辛い小片に、何度も手が伸びてしまったものです。
 二〇〇二年の南カリフォルニアでは、ほとんどのスーパーマーケットで、透明の袋入り、箱入り、ときにはプラスチックボトル に詰められたあられが売られています。日本食品やアジア食品のコーナーだけではなく、野菜や果物を売るコーナーの一角に、ナ ッツ類やプレッツェル(焼き菓子)などと混合状態になったものがライスクラッカーミックスの内容表示で並んでいることもあり ます。
 日系資本の日本食品スーパーは、さすがに品揃えが豊富で、日本からの輸入品を中心に、現地日系メーカーの製品、日系の食品 商社がタイなどに製造を委託した製品が見られます。一般のスーパーには、日本以外のアジア諸国、とくにタイで作られた製品や、 アメリカ国内製のあられが多いのですが、それら非日本製あられのパッケージは、英語表示の中に漢字や仮名を加えて日本らしさ を強調したもの、英語のみで日本語表示はなくても、どこかにアジアを感じさせるもの、もはや少しもアジアを感じさせない ものの三種類に分けられます。そして、後者の「日本離れ」を果たしたあられが、確実に勢いを増しています。
 日系人以外にも、あられがアメリカ(とくにカリフォルニア)でよく食べられるようになったのは、冒頭に書いたように一大 日本食ブームが起きた一九八〇年前後。日本の大手酒造メーカーが、日本酒のアメリカ現地生産を始めた時期とも重なります。し かし、前回取り上げた枝豆と違って、アメリカのあられは日本酒と強く結びついているわけではなく、むしろカクテルやハイボー ルのつまみという位置づけから始まったようです。
 あられがアメリカ人に注目されたのは、それがヘルシー(健康的)な食べ物だと受け取られたからで、コレステロールゼロ、脂 肪分ゼロ(またはローファット)を強調したパッケージをよく見かけます。「ポテトチップのような油で揚げたつまみは、グラス が汚れるのでバーテンが喜ばない。その点でも、あられは歓迎された」という見方をする当地の業界関係者もいます。
 ともあれ、アメリカにあられを最初に伝えたのが日本人(および日系人)であったことは間違いありません。

甘い煎餅とその時代
 煎餅の一種のあられ(霰餅)が、いつ頃から日本で作られ、どんな食べ方がされていたのかは定かでないのですが、文明年間 (一四六九〜八七)に作られた連歌の中に、「老松の花に咲かむや霰餅」の句があります。コロンブスがアメリカ大陸を発見?す る以前から、それは日本に存在していたわけです。
 慶長年間(一五九六〜一六一五)には、奈良で霰酒(あられざけ)というものが作られました。その霰酒には、のし餅を細かく 刻んで焼酎に漬けたのち乾燥させた餅あられが使われたとか。しかし、実物を見ていないので、どんものなのか、ちょっと見当が つきません。あられが、酒のつまみとして定着したのは、もっと時代が下ってからのようですが、酒とあられの結びつきはもとも と強かったのでしょう。
 あられの中でも、とくに日本酒やビールと相性が良く「乾きもの」の代名詞にもなっている柿の種は、登場したのが意外に新し くて大正時代。新潟県長岡市の浪花屋という製造所が、小判型の煎餅を作ろうとして失敗し、生地を細かく切り刻み、いわば怪我 の功名で生まれました。酒のつまみとして定着したのは、第二次大戦後です。
 アメリカで本格的にあられが作られるようになったのも、やはり第二次大戦直後のことで、戦前には、日本から煎餅あられの製 品が輸入されることはあっても、現地で本格的に製造されることはなかったといいます。
 戦前からアメリカの日系社会で本格的に製造されていたのは、多めの砂糖に卵も加えた甘い煎餅。瓦煎餅の系統です。これは、 アメリカの日系人社会が、西日本出身者を中心に形成されたことと関連が深いと考えられます。
 戦後いち早く、醤油味の、関東でも馴染みのタイプのあられをアメリカで手がけたのがウメヤ製菓でした。一九二〇年代にロサ ンゼルスの中心部、リトル東京と呼ばれる地区で創業し、もともとは砂糖の入った、甘い関西系の煎餅を得意としていた会社です。 話はここで少し脇道にそれますが、アメリカで中華料理店に入った経験のある方は、食事がすんだ頃、勘定書と一緒に、餃子を 「く」の字に折り曲げたような形で、中が空洞の甘い煎餅がデザート代わりに出てくるのをご存知かと思います。フォーチュンク ッキーと呼ばれていますが、中に長方形の紙片が入っているのがミソで、その紙片には「HAPPY DREAMS AND WISHES CANCOME TRUE (幸せな夢と希望はきっと実現する)」といった、すべて大吉のおみくじのような金言名句が印刷されています。い かにも商売の才に恵まれた中国人のアイデアと思ってしまいそうですが、三重県志摩町出身で渡米後ウメヤ製菓を創業した浜野保 雄氏が、今から八〇年も昔に発案したと伝えられています。
 現在ウメヤ製菓を経営するタック浜野氏は、保雄氏の次男で一九二四年ロサンゼルス生まれ。モダンボーイの面影を残すタック 氏から、ウメヤのあられ、それに先立つフォーチュンクッキーの来歴を、英語と日本語のミックスでおうかがいしました。  

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