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大にぎわいの黒船見物
 外国に門戸を開くのは「一八(いや)で五三(ごさん)す」と言っているのに、ペリーの黒船艦隊が浦賀へやって来た。日本の年号で言うと嘉永6年のことであった。
 従って2003年は「ペリー来航150周年」という節目の年であったが、またこの年は、1603年に江戸幕府が開かれてからちょうど400年に当たったために、こちらの華々しい事に隠れてしまい余り大きな話題にはならなかった。
 しかし150年前の騒ぎは大変なもので、「泰平のねむりをさまされ、たった4はいで夜も眠れず」といった状態で、12代将軍家慶は驚きのあまりショック死してしまったと言われる。
 だが幕閣の苦悩をよそに、一般大衆にとって黒船の出現は一大エンターテイメントであった。瓦版が噂をあおりたてるので、この一生に一度あるかどうかという機会を逃してはならぬと、こぞって黒船見物に出かけたのである。
 江戸から浦賀へ陸路で行けば、途中神奈川宿あたりで一泊しなければならない。しかし海路を行けば、自分の足で歩かずに済むし、しかも時間が大幅に短縮出来る。江戸湾沿いの村々は黒船見物の小舟を雇う人々で時ならぬ大にぎわいをみせた。
 だが街道筋の宿場は困った。旅籠、茶店、居酒屋など、客を海路に奪われて商売にならなくなってしまったのだ。そこで宿場の代表が、海路利用の禁止をお上に訴え出たのだが、これは取り上げては貰えなかった。
 ただし幕府としては、浦賀奉行所から黒船に近づくなというお触れや、町奉行所から黒船見物を禁止する旨のお触れを出させている。しかしながら、いくら禁止しても違反者に罰則がなかったために、全く効果はなかった。
 日を追うごとに黒船見物の船は増えていった。そこで浦賀奉行所では、せめてもの対策として、見物船を黒船に接近させぬよう警備艇をだした。
 毎日黒船のまわりを巡回するが、乗組員は同じである。そこで黒船の乗組員との間に交友が生じた。黒船からカゴが吊されて、玉子焼き(オムレツ)やバターのついたパン、牛の焼いたもの(ハンバーグかステーキか)などが贈られてくる。もっとも気味が悪いとほとんどを海に捨ててしまったが。
 やがてそのうちに、黒船に上がって来いと手招きするようになった。恐怖心はあったが好奇心がそれを上回ったので恐る恐る乗船すると、ビスケットそれにギヤマンのグラスに入った何やら「赤黒い水」を出された。
 「人間の生き血」ではないかとみんな真っ青になった。これまで異人はいろいろな食べ物をくれたが、そうしてつっておいて最後には殺してこうやって生き血をとるのだろうと、大あわてで逃げ帰った。
 いうまでもなくこれはワインだったが、オランダ人との接触があった人ならともかく、浦賀あたりの下級役人には、赤い色の液体は血液以外に考えられず、まさか飲み物だとは思いもよらなかったのである。

返礼に軍艦へ招待
 ペリー一行が横浜村に上陸したのは、嘉永7年(1854)2月10日(旧暦、以後も全て旧暦で通す)のことであった。急遽仮設された応接所において、日本側が彼らを招いて大宴会を催したのである。
 まずのし紙を敷いた上に銚子と杯を載せた三宝が出された後、三汁七菜の豪華な会席料理が続々と運ばれた。この料理を幕府から頼まれて請け負ったのが、当時江戸で評判の名店、日本橋浮世小路の「百(もも)川」で、一行75名分の料理代として2000両を受け取ったという。
 ただしこの時の記録類が錯綜していて、やはり名店とうたわれた山谷の「八百善」が料理を担当して1000両を貰っただの、浦賀宮ノ下の料亭「岩井屋」が料理を作った、などという話もある。それでこれらの店が協力して事に当たったのではないかと言う人もいるが、3月3日の日米和親条約調印後にも正餐が出されているので、あるいは日を別にしてそれぞれが分担したのかも知れない。
 2月29日にはペリーが日本人約70人を旗艦ポーハタン号に招いた。先日の答礼である。料理はペリーが随伴してきていたパリ生まれの料理長が腕をふるった。艦内で飼育されていた牛や羊、鶏などこの日のために屠り、ペリーが日記に「彼ら日本人が出してくれた料理の20倍はあったろう」と記している程の料理が出された。
 なおペリーが自慢げにこう書いたのは、やはりちまちました会席料理の量に不満を抱いていたからであろう。もっとも不満は量だけではなかったようで、やはり日記に日本の料理に対して「絶大な賞賛を与えるわけにはいかない」とも書いている。
 料理も盛大だったが、出された酒の種類も多かった。シャンペン、ワイン、シェリー、ウイスキー、パンチなどがふんだんに置かれていた。
 外国人との接衛を担当している人たちだから、当然ワインを生き血と間違えるような人はいない。なかでもこの日本人たちが気に入ったのは、トマトをベースにしたカクテルだったそうだ。ウオッカが入ったブラッディー・マリーのようなものだと思うのだが、当時の日本人としては随分と洒落たものを好んだものだ。
 なお日本側の全権代表林大学頭(だいがくのかみ)はこのフランス料理をすべて賞味しながら、あらゆるワインを飲んだにもかかわらず、他の人が酔っていたのに1人正気だったという。
 ところでペリーは、日本料理は気に入らなかったようだが、焼酎は好きになったようだ。3月3日、前述したようにこの日条約の調印が行われその後食事が出されたのだが、この日の日記にこう書いている。
「食事中は特別の瓶に入れた日本の飲料酒、つまり米から蒸溜した一種のウイスキーも多量に出た」
 「焼酎」とは書いてないが、「蒸溜した」と言っているので日本酒ではないだろう。ペリーは日本からのみやげとして琉球の泡盛をアメリカに持ち帰っている。

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