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銀の酒器

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ラインの石器と
  ひげ徳利


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酒論稿集
酒器論稿
ライン石器とひげ徳利
一 ライン河流域に派生した民陶
「夏の黄昏(たそがれ)のひととき、壮大なケルン大聖堂の前にかかるホーエンツォレルン橋のたもとに立ち、悠々たるラインの流れを前 にして遙かライン上流地方を眺めるとき、再び帰らぬ少年の日を追憶し、いつか聞き覚えたあの『ローレライ』の歌を口ずさ むのはひとり私だけではないだろう。クレメンス・ブレンターノやハイネの詩文であまりにも有名なラインの名勝ローレライ は州都ケルンや古都ボンから遥か上流の、芳醇なぶどう酒で知られるモーゼル川との合流点の少し上流に位置する。この辺り に来るとライン河は深い緑に包まれた美しい渓谷となり、流れは速く巨石が岸辺にそそり立つ深く切り込んだ川の南斜面はい ちめんのぶどう畑が続き、川岸に沿ってところどころで赤い屋根の集落が眺められる」
 右の一文は二〇数年前に筆者がライン石器についてある雑誌に記した冒頭の一節である。
 ドイツ人のあいだで「母なるドナウ」に対して「父なるライン」と呼ばれているライン河はその源を遠く南のアルプスに発 し、ヨーロッパの中央部を貫流して北海に注ぐ全長一三〇〇粁の大河である。ライン河は古来よりヨーロッパの内陸部の交通 の要所として知られ、その両岸には、ボンやケルンやデュッセルドルフなどの主要都市をはじめ多くの古い町が点在する。な かでもケルンは古くローマ時代に水陸の交通の要所としてローマ帝国の植民都市が築かれ、ローマ名のコロニアがそのままケ ルンの地名となっている。当時の人口は約三万人、その後キリスト教時代になってカール大帝によって大司教座が置かれ、以 後中世から近世にかけてカテドラルを中心に発展し、一二、一三世紀には宗教のみならず商工業、文化・芸術の中心地となり 今日にいたっている。
 じつはこのライン地方の流域で中世末期よりヨーロッパの陶芸史上まったく独自のユニークな焼きものが焼かれていた。ラ イン石器である。石器という語はその語義のとおり、石のように硬く焼き締めた器という意味で、ドイツ語でシュタインツ ォイク、英語ではストーンウェアと呼ばれている。石器は高温で焼き締めているため陶器のような気孔質ではなく、水を入 れても汗をかいたり水漏れすることはないが、磁器のような透明度もない。その成形には轆轤(ろくろ)が用いられ、一旦乾燥させたあ と酸化焔で焼かれる。とくにライン石器は窯の温度が一二〇〇度ぐらいになった時、窯の中に塩を投げ込む。すると塩の塩 化ナトリウムはソーダーと塩素に分解され、ソーダーは胎土の表面の珪酸とアルミナと化合して器の表面を薄いガラス質で覆 う。こうして焼かれた塩釉の石器は陶土に含まれる鉄分の量によって黄褐色や黒褐色、クリーム色、あるいは鮫肌のよう な黒褐色のまだらな肌合いとなる。このようなラインの石器がいつ頃から誰によってはじめて焼かれるようになったかは定 かではない。というのもこれらは長い歳月のうちにいつとはなく民衆のあいだで焼かれて来た庶民の実用雑器であったからで ある。その最も初期の作例は概ね一三世紀から一四世紀にまで遡ることができるが、それらの遺品の多くは轆轤目を残した無 装飾のもので、一四世紀後半になってようやく花文や紋章の浮彫りのある中世風の器が製作されるようになった。これが実際 の開花をみるのは一五世紀から一六世紀になってからである。
 ところで、ライン地方で塩釉の石器を焼いた主だった地域には古来よりラインの州都であったケルンを中心に、その周辺 のレーレン、ボンに近いジークブルク、上流地域のコブレンツ、エステルヴァルトのグレンツハウゼンなどがあげられる。なか でもケルンには早くからすぐれた石器を焼く三つの工房があったことで知られる。

二 ラインのひげ徳利
 きわめて初期の作例には中世末期から一六世紀初頭にかけての先駆的な作例も見られるが、ひげ徳利は徳利型の後部に大き な垂直の把手のあるジャグの前面に頸部から胴部にかけて有鬚の老人の顔を大きく浮彫りにした独特の酒瓶のこと、一六世紀 から一七世紀頃にかけてライン地方で多量に生産されていた。その大きさや形はさまざまで、ほとんど球形を想わせるような 胴部をもつ豪放な作行きのもの、また酒が二升も入るような大きなものから頸が細長く日本の徳利に把手がついた五合ぐらいが やっとの小さなものまで多種である。これらのうち、一六世紀前半に帰される初期のジャグは全般に口縁部が広く、背が低い。 正面に浮彫りにされた有鬚男の顔は大きく口縁部から胴部の真ん中あたりに及んでいる。長く縮れた鬚は方形をかたちどり胴 部を取りまくかしわの葉やアカンサス葉の装飾の上で水平に切られている。一方、一六世紀後半から一七世紀になると、この有 鬚男のジャグは口縁部が急に細くなり、これと反対に胴部が大きく膨らんでくる。ことにケルンやレーレンで焼かれたものに それが顕著となる。またこの期のジャグには以前胴部の中央部にあった帯状の装飾文様が消え、これに代わって正面に窯主や領 主の、あるいはアムステルダム市やケルン市、それにオーストリアやデンマークの王家の紋章が大きく浮彫りにされている。 またこの時代に入って鬚男の顔の表現が次第に自然主義的となり、鬚の姿も当時ドイツで流行していた丸味を帯びた自由な表 現となっている。小さく締まった口縁部に対して、はち切れんばかりの大きな胴部の膨らみをもつこの期のジャグは緊張感に 満ちあふれていてライン石器の中では最も芸術性の高い魅力ある作品と言える。
 さらに一六世紀末から一七世紀にかけて新たな変化が現れた。器の胴部の膨らみがやわらぎ、頸部が長く伸びて、まるで伊万 里の徳利を想わせるような形となり、底部には低い高台がつけられている。と同時に鬚男の顔は類型化し、一様に大きな長い 胴部とせせら笑うような大きな開いた口をもつ。その表情はきわめて嘲笑的、戯画的で、胴部 の紋章は小さく正面だけである。そして一七世紀末から一八世紀にかけての鬚男の顔の表情には笑いが失せて真一文字の、もし くは泣きべそをかいたような、また鬚で口が覆われて見えないようなものが少なくない。今日ヨーロッパの古美術店で見られ る大部分はこの種のものである。とくにイギリスでは一六七一年フルハムのジョン・ドワイトがその模作に成功し、この種のも のが相当な数焼成されたようで、日本にある多くはこの種のものである。

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