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若鶴 富山
農醇な無濾過生原酒でおいしさを追求
富山県では三本の指に入る実績と知名度を持つ若鶴酒造株式会社も、これまで首都圏ではさほど有名ではなかった。しかし近年、世の淡麗辛口指向に逆行する濃醇な無濾過生原酒「苗加屋」を発売。その名を高めつつある。

写真 富山湾に面した県第二の都市高岡で、JR城端線に乗り換える。列車は、だいたい一時間に一本。そもそも「列」車とは呼べない、バスのようなワンマンカーが走る、典型的なローカル線だ。ワンマンカーは、高岡市を出るとすぐに田園風景に囲まれ、曲がりくねった線路を進む。途中では、農作業のおばさんが線路を横切るのを見て運転手がホーンを鳴らしたり、あくびが出るほどのんびりした風景だ。高岡を出ておよそ30分。この地方特有の、散居村(かいにょ)と呼ばれる屋敷林に囲まれた農家が点在する風景が目に入りだすと、若鶴酒造本社のある油田駅に着く。「若鶴」は、まだ全国的な知名度としては低いが、地元富山では「銀盤」「立山」と並ぶ人気を誇る蔵元だ。
同社はこの地で創業。現在も油田駅前の、田園に囲まれた広大な敷地に、いまは貯蔵庫として使われている土蔵造りの大正蔵、昭和蔵(松庫、鶴庫)の二つの酒蔵をはじめとするさまざまな建物が並んでいる。訪問した日は好天に恵まれ、同社三階からは、遠くに新雪を被った剣立山連峰を望むことができた。

2代目小太郎の起業家精神
写真 創業は、文久2年(1862年)。ちょうど徳川14代将軍家茂と皇女和宮との婚儀が行われた年で、300年近くつづいた徳川幕府も、そろそろ屋台骨が大きくゆるみかけていた頃だ。
この年、砺波郡三郎丸村の豪農桜井宗一郎の分家、勇三郎が、同郡五位組三日市村(現福岡町)の豪農から酒造免許を譲り受けた。このとき生まれたのが「若鶴」である。
さらに明治43年、同社初代稲垣小太郎氏がこれを継承し、現在の体制のもとが築かれた。同時に同社は麒麟麦酒の販売権を獲得している。この判断は、のちのちの経営に大きな役割を果たすことになるのだが、ここでは事実関係のみを記すにとどめておく。
大正7年には、若鶴酒造株式会社を設立。同11年には大正蔵を新設し、清酒の製造力を強化した。同社のその後の発展の原動力となったのは、この大正期にまだ20歳代の若さで跡を継いだ、2代目稲垣小太郎社長の旺盛な起業家精神である。
「20歳代から60歳くらいまで社長をやっておられた人ですが、いわゆるベンチャー精神があって、向学心も旺盛で、昭和50年の3月に84歳で亡くなりました」(若鶴酒造株式会社代表取締役社長 稲垣忠一氏)
その起業家精神は、第二次大戦後大きく花開くこととなった。
まず、昭和24年には、焼酎甲類の製造免許を取得。翌25年には、合成清酒の製造免許を取得する。
戦後の酒不足の時期に少しでも需要に応じるためにと奔走努力し、27年からはリキュール、ウイスキーの製造を行うなどの多角化をもたらした。
一方、昭和34年には昭和蔵(松庫)を新設。同時に、それまで蔵を任されていた越後杜氏に加え、新たに南部杜氏を採用した。つまり、昭和蔵と大正蔵、蔵ごとに二地域の杜氏が競い合うというユニークな方針である。
この体制は平成6年、南部杜氏の引退で終わるが、現在、昭和蔵鶴庫(昭和48年新設)をあずかる越後杜氏米山弘氏は、同社社内報で当時のようすを次のようにふりかえっている。
「其の間、南部杜氏との競争でした。秋、蔵入りと同時に当時の製造部長である深澤技師等の指導のもと醸造計画を立て、如何にして良い酒を醸すか、両庫切磋琢磨しながら、毎年が勉強でした。新潟の先輩諸兄のアドバイスのもと精進努力の結果、杜氏としてはじめて昭和55酒造年度、全国新酒鑑評会で金賞をいただいた時の嬉しさは言葉では表現できないほどの感動で、私の一生の宝物です」
こうして、越後、南部両杜氏の競争心を高めることで、質の高い酒造りの技術をも磨いていった。

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