研究レポート

平成の「地酒」クロニクル ― 冷たい酒はどう広がったのか

 吟醸酒に生酒、そしてスパークリングSAKE と、冷やして飲むことが一般的になった清酒ですが、わずか40年前まで燗をするのが当たり前でした。なぜ、どのように燗から冷酒に変わったのでしょうか。歴史を紐解きながらたどってみましょう。

■増えたのは「爽快な酒」

 1967年から2015年までの約50年間の国内の酒類消費量を見ると、1995年頃までは右肩上がりで成長し、その後はゆっくり減少しています(図表1)。ここで注目したいのはグラフの上から75%ほどは、アルコール度数が10%未満で発泡性のあるビールや缶チューハイなど、冷やしてゴクゴク飲める「爽快な酒」であることです。下部には清酒・焼酎・ウイスキー・ワインが並びますが、これらの合計は半世紀の間ほとんど変わっておらず、2000KL前後で推移してきました。一般的に酒類消費量は経済成長とともに増加します。日本だけでなく、韓国、中国、ベトナムなど海外も同様で、それを牽引したのがビールという爽快な酒である点も共通しています。

 
 清酒の消費量は長年減り続けています。特に酒類消費量全体が減少に転じた1995年から2005年頃までの10年間は、急減と言うほどの減り方です(図表2)。バブル崩壊からの長い不況下で、清酒のヘビーユーザーの多くが、より経済的で酔い醒めのよい焼酎に移行したのです。一方で富裕層に多いグルメ層はワインを強く支持するようになり、清酒は対グルメ層でも新しいユーザーをとりきれませんでした。

 ちなみに消費量が増加した焼酎と10年前に底打ち反転したウイスキーは、ソーダなどで割る爽快系の飲み方で新しいユーザーを掴み、カジュアルな食シーンという寛ぎの場に定着しています。清酒も爽快な酒を模索しなかったわけではありません。オンザロックやサケカクテルを提案し、冷酒もそのチャレンジのひとつでした。しかしヘビーユーザーが、安価で気軽な酔える焼酎に流出するのを引き留めきれませんでした。

■燗酒は自由な酒盛りの酒

 こうした清酒の減少とともに進んだのが、温めて飲む燗酒から冷酒へという飲み方の変化です。かつて清酒は燗で飲むのが当たり前、ひや酒を飲むことをはしたないとする雰囲気すらありました。
 では燗酒はいつ生まれ、どのように普及したのでしょうか? この点について、酒文化研究家の阿部健氏の論稿を要約します(「『小梅日記』の酒を読む その三 燗酒考―その機能とプロセス」弊誌2004年3月号)。燗酒は人が酒が飲むようになって、暖をとるために自然発生的に生まれたと考えられます。文献に現れるのは平安時代からで、『宇津保物語』(平安)、『宇治拾遺物語』(鎌倉)など複数の記録からは、「寒さ凌ぎ」に「もてなし」の意味が加わっていることがわかります。寒いなかを訪ねて来てくれた客人を、温かい酒でもてなす心情です。
 鎌倉時代からは「酒盛」といわれる公式の宴の後におこなう、いわゆる二次会が盛んになります。席次によらず杯を交わし、歌舞音曲を楽しむ酒席です。これは「乱酒」ともいわれました。
 日本の宴会は古くから公式の宴と、その後におこなわれる小宴が連続していました。公式な宴では、現在も三々九度で燗酒を使わないことからわかるように、ひや酒が用いられます。これに対してその後におこなわれる酒盛では好んで燗酒が用いられ、開放的な気分で飲み、深く酔う酒を象徴するようになっていきます。時代は下がりますが、こうした様子を幕末に来日した英国の外交官アーネスト・サトウは、「燗酒は杯を重ねる場合、冷酒はそうでない場合」と記しています。ちなみに温めた酒を「燗」と呼ぶようになるのは15世紀半ば、「燗酒」という熟語が登場するのは『多門院日記』(16世紀半ば)です。
 また、江戸期になると燗酒は酒器を発達させます。儀礼から解き放たれた酒盛では、遊里での遊びにふさわしいように優美な酒器が求められました。鉄製の武骨な燗鍋は嫌われ、天保期に絵付けされた燗徳利が登場すると、燗酒を楽しむ道具立ては陶磁器に変わっていきます。遊里から料理屋、さらに庶民的な居酒屋と煮売屋(屋台の飲食店)へと広がり、一年を通じて燗で酒を飲むようになっていきました。

きれいに絵付けされた徳利や猪口は燗酒の宴を大いに盛り上げ、さまざまな意匠が生まれた

■「いい酒は冷やして」神話の誕生

 燗酒の隆盛は、清酒が消費量のピークを迎える1975年頃まで続きます。戦中戦後の約10年間は清酒が欠乏して途切れざるを得ませんでしたが、供給が回復すると全国的に燗酒が復活します。会社や地域の集団で燗酒を酌み交わし、お互いに深く酔う宴が頻繁におこなわれ、清酒の消費量は順調に増えていきます。
 様子が変わるのは1970年頃です。食用の米を十分に確保でき、清酒を潤沢に供給できるようになると、少ない米から多くの酒を得ることを優先した酒づくり(三増酒)を批判する声が出始めたのです。長く防腐剤としてサリチル酸を使用していたことも、清酒のイメージを悪化させました。
 こうした変化とともに、量産よりも高品質な酒づくりを優先しようとする酒蔵の活動が活発化します。清酒への不信感を払拭し、イメージを改善しようとする取り組みです。1972年には醸造用アルコールや糖類を添加しない純米酒を世に問うた純粋日本酒協会が発足、二年後に地方の銘醸蔵をグループ化した日本名門酒会が誕生、1981年には日本吟醸酒協会が結成されました。これらは同時に、それまで特・一級という上級品市場を独占していた大手メーカーに対抗して、地方の中小メーカーが級別制度とは異なる切り口で上級品市場をつくりだす試みでもありました。清酒需要が頭打ちとなるなかで、体力に勝る大手メーカーは地方メーカーが担ってきた二級酒市場に進出し始めており、地方のメーカーにとって上級品市場の開拓は重要な経営課題でもあったのです。
 市場が飽和し成熟すると分解再編に向かうと言われます。清酒市場はこのとおりに動き、ピークを打つと同時に級別制度という既存の価値基準が揺らぎ始めます。大手メーカーは次々に三増酒の廃止を表明し、長く激しい議論の末、1990年には特定名称酒規格が固まり、級別制度は1992年に廃止されました。半ば公定価格で横並びだった価格を自由に決められるようになり、清酒メーカーは初めて、製品・価格・ブランドをマネジメントして好感度を上げていく、本格的なマーケティング競争の世界に突入したのでした。
 新しい基準による上級市場をつくるには、従来の酒とは違うことを明確にしなければなりません。飲み手がひと目で違いを理解する仕掛けが要ります。冷酒は、燗酒が常識だった時代に、それとは一線を画すことを示す役目を負うことになります。多くの吟醸酒は冷やしておいしいタイプですが、新市場づくりのために、声高に「吟醸酒は冷やして」と言わねばならず、「燗をするのは粗悪な酒」という誤解を生じさせることになりました。

冷酒を提供するのに向いている、立食で酒蔵のブースを巡って試飲するスタイルが広まった

■「生を冷やして」の全国展開

 これとは別に冷酒の普及を進めたプロモーションがあります。1980年代前半に大手メーカーが主導した生酒・生貯蔵酒(以下生酒と総称)の市場投入です。清酒が減少に転じるとすぐに、冷やして飲む生酒が地域を限定して試験販売され、白鶴や月桂冠が1984年に全国的なプロモーションを展開します。それまで生酒は賞味期間が短く、飲める場所がごく一部に限られていました。それが濾過や殺菌技術の発達、冷蔵で流通する物流網の整備が進んだことで広く流通させられるようになったのでした。
 テレビや新聞などマスメディアで広く告知された生酒の冷酒訴求は、夏場に清酒を冷やして飲む提案をすることで、消費が滞る夏場の需要開発を狙ったものです。最初に見た「爽快な酒」に清酒が近づく動きでもありました。
 生酒は燗酒とは異なるフレッシュな味わいが受け入れられ、現在では清酒の一割弱を占めています。

清酒を冷やして飲む提案は昭和初期にも見られた。1934年(昭和9年)の案内チラシ(月桂冠ホームページより)

■「地酒」と地方名酒

 冷酒が従来の燗酒とは違う上質な酒だとアピールするなか、意味合いが変わっていったのが「地酒」というワードです。もともとこの言葉は、遠方から来た来客に「お口に合うかわかりませんが、この辺りの地酒です」と卑下気味に使うニュアンスがありました。酒好きのグルメな作家で昭和20~40年頃に活躍した吉田健一氏は、作品で各地の名酒を度々採りあげましたが、その総称として「地酒」を使った形跡はありません。
 日本名門酒会を設立した飯田博氏は『銘酒発掘物語』(1983年・商業界刊)で、日本酒は大きく三つに分けられるとしています。①大量生産型日本酒(いわゆるナショナルブランド型) ②ふつう「地酒」と呼ばれている全国各地にある小規模型日本酒 ③地方名酒と呼ぶべき、一般地酒のなかから品質的に抜きんでた、一握りの日本酒 です。そして、③は2500社(当時)ほどあるメーカーの、ほんの5%~10%程度のもので、現在は②の「地酒」メーカーから③地方名酒メーカーを目指す動きが盛んと述べます。
 このように地酒と名酒は分けて使われていたのですが、次第に混同して使われるようになっていきます。高速道路や新幹線などの大動脈で全国が結ばれ、テレビや雑誌が各地の話題を紹介するようになり、観光や仕事で人々の行き来が飛躍的に増えた時代です。かつては好事家が愛でた名酒が、一緒くたに「地酒」と括られて広く伝わっていきました。
背景には当時、清酒に限らず大量生産の酒を批判してセンセーショナルな話題を呼んだ日本消費者連盟編著『ほんものの酒を』(1982年・三一新書刊)等の影響もあったでしょう。小規模でも真面目な酒づくりに取り組む清酒メーカーを称賛する風潮は、尾瀬あきら氏の漫画『夏子の酒』(1988年・連載開始)などその後も長く続きました。

■冷たい酒市場にプラスオン

 こうして冷たい酒が新しい高品質な酒の象徴となるなかで、清酒好きを自認する人たちの間で、ステレオタイプの飲酒ヒストリーが語られるようになります。「元は日本酒が大嫌いだった。三増酒を飲まされて、ひどい目にあったから。でも○○という名酒に出会って驚き、以来、日本酒にどっぷり嵌った」というものです。最初に悪い体験(BAD)をしたことを述べ、驚きの出会いを強調し(SURPRIZE)、深みにはまる(DEEP)と結ぶこのパターンを使う人を、いったんBSDと呼んでおきます。これは現在もそのまま引き継がれており、若い清酒ファンにどのように清酒が好きになったのかを尋ねると、「三増酒」が「飲み放題」に置き換わっただけのまったく同じ答えが返ってきます。
 もっとも広く飲まれているタイプの清酒を、一度否定しなければそのよさを語れないBSDのコミュニケーションの取り方は、ごく一部のファンにしか馴染みません。そして、圧倒的に多いであろう、清酒に悪いイメージを持っていないけれど、自ら進んでは飲まないライトユーザーにBSDがすすめるのは、容易に入手できない酒であることが少なくありません。清酒は熱心なファンの言葉が、ライトユーザーを清酒にうまく引き寄せられないジレンマを抱えています。
 これを解決するには広く「燗酒」を再評価させる必要があるのかもしれません。「冷たい酒」はすでに上質のシンボルとして定着し、新市場づくりの役目を終えています。地酒がおいしいという神話も、数々のコンテストを見れば根拠のないことは明らかです。入手しやすくおいしい燗酒を、素直にすすめられる下地をつくることが大切です。
 このように見てくると冒頭に見た清酒の減少は、さしつ・さされつして深く酔い、時に無理強いにつながる従来の燗酒の飲用スタイルが否定されたと言えそうです。これからは、燗酒が清酒ほんらいのおいしさを引き出すことを伝え、冷たい酒で開発した市場に、温める酒を上乗せする時期です。そして、もうひとつ、清酒を元気にするために重要なのは、爽快な酒としてのポジションを得るための技術開発です。■

(季刊 酒文化 2018年 特別号上巻 収録)